美濃和紙の歴史

旧今井家住宅
和紙問屋を営んでいた旧今井家住宅
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美濃紙の起源については明らかではありません。 ですが、奈良の正倉院に日本でもっとも古いとされている戸籍用紙が残っており、その用紙が美濃、筑前、豊前の3カ国であったことから大宝二年(702年)には存在していたとされています。 美濃紙はその三種の紙の中でも漉きむらがなく一番優れていたとされています。

美濃紙は平安時代になると需要を急激に増加しました。 その背景に仏教の興隆、普及によって、経文(きょうもん)や経典(きょうてん)の需要があったとされています。 この紙の普及に伴い、全国各地からさまざまな紙が京都や奈良に送られましたが、美濃紙は都での評判が極めて高かったようです。 このため京都の上層階層者たちは、縁故を頼って美濃紙を求めたと言われています。

美濃紙がもっとも多く京都に進出したのは応仁、文明(1486〜)の頃で、商工業が大いに発達すると同じくして、美濃製紙業も急速な発達を遂げたものと考えられています。 美濃紙の中心は現在の美濃市及び周辺の地域で、市内大矢田に紙市がありました。 応仁3年大矢田紙商人は、京都にある領主の宝慈院に対し毎月6回紙荷の年貢を納入しています。

美濃和紙は、江戸時代になっても受け継がれましたが、紙漉き業はみだりに免許されませんでした。 ですが、明治維新により制限がなくなり国内の紙需要は増大しました。 明治初年における美濃和紙の生産数量は、「美濃紙29萬束、23萬2千円」とあり、現美濃市の地域が紙生産の中心地であったことが分かります。 このため、紙漉きを副業から正業に転ずる人も多く、紙漉き人口も増加したため、紙問屋は、利益を増やすため、互いに競争を始めることになりました。

戦争が始まると、日用品のほか、爆薬包装紙・航空機用パッキングなどの軍用品としても、紙は極めて多くの方面で使用されましたが、美濃紙もこれらを支えることとなりました。 ですが、経済不況、濃尾震災(明治24年)、太平洋戦争による物資、労働力不足等が美濃和紙生産に大きく影響しました。

紙需要の飛躍的増大にともなう機械抄きの導入、機械抄紙との競合は大正時代からの更には戦後に石油化学製品(天幕用紙⇒ポリシート)の進出は大正末期から紙業界の大きな課題でした。 業者多数を有し問屋支配型であった美濃紙産地は、大量消費が期待できる日用品素材を中心に生産しているため、機械抄との競合、更には戦後における石油化学製品(天幕用紙→ポリシート)の進出などの影響を受け、転廃業あるいは自ら機械抄きへの進出などにより、昭和30年代には1200戸あった生産者数が、昭和40年には500戸に激減し、その後減少を続け昭和50年には100戸、昭和60年には40戸となりました。 手漉き和紙の振興をはかるため、昭和58年に美濃手漉き和紙協同組合を設立し、伝統技術に新しい改良を加え、その技法を後世に残すよう努力を続けています。昭和60年5月22日には、通産大臣から伝統工芸品に指定されました。