ずなみの やきものは遠く室町時代に始まり、安土、桃山そして現代へと引き継がれ、日本のやきもの、美濃焼の一角を形成して永い伝統と歴史の中にはぐくまれ、美濃古陶といわれる志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸などもこうした環境の中で新しい焼きものを生んできた。
瑞浪市における窯業の歴史は、平安、鎌倉時代の古窯跡とみられるものの調査が未完成のため不明であるが、その遺跡と記録に残る市内窯業の発祥の地、陶地区は室町時代の文明6年(1474年)、武蔵之国久良岐群(横浜市)出身の加藤左衛門尉景信が陶町大川に移住して大川窯を築いたのを起源としている。

川窯は景信を初代とし、戦国末期の四代景度の時に「与佐焼」として志野、織部、天目、黄瀬戸系の鉢類、壺類、皿、茶碗の日常品をも焼かれ全盛期を迎え、天正二年(1574年)には織田信長の朱印状を得てをり、またこの大川窯より、90年後の永禄6年(1563年)に尾張国瀬戸より加藤万右衛門尉基範が陶町水上にきて水上向窯を創業し、ついでその子、仁右衛門尉景貞が天正6年(1578年)土岐の久尻より移住し猿爪釜ヶ洞に築窯した。それより約20年を経て久々利、大平村の加藤太郎右衛門景里は、慶長7年(1602年)水上の地に田尻窯を拓いた。室町より江戸時代にかけての美濃焼発祥の地としての大川窯水上向窯猿爪窯田尻窯、と相次いで、開窯しました。
里泉焼(稲津)
里村(稲津町)では、元禄年間、岩島角兵衛によって製陶が始められていたと、つたえられている。文献によると天保12年(1841年)和田亀右衛門光慶と幸右衛門、周助の3人による創業であったが、幸右衛門、周助は数年で離脱し、亀右衛門光慶の単独事業であった。二代目光度になって窯業と製土業に革新的発展が起こり、製陶では銅板絵付を開発し”里泉焼”と銘して名を挙げる。

萩之島焼(釜戸)
戸における開窯は萩之島村(釜戸町)において天保の初期、足立良平、財助の両名によって創始されたが、この操業期間は、詳らかでないが、やがてそのあと弘化、嘉永年間(1845年頃)萩之島村庄屋足立岩次によって受け継がれ、同地西山に築窯し操窯を開始、その製品は「萩之島焼」として明治初期まで焼き続けられた。製品は白磁の美しい神仏器、香炉、湯呑、茶碗、皿類であり当時の物としては優れた作品です。
記以外、瑞浪産地の窯業の創始は明治期以降であるが、この地方は古くから良質な粘土と資源に恵まれ瑞浪市周辺に多くの窯跡が発見されているので、東濃より木曽谷にかけて、やきものの宝庫であったということがうかがえる。島崎藤村が生まれて有名な、信州の馬籠の宿の近く中津川市の一帯に鎌倉時代(1300年頃)のものと思われる古い窯が50位発見されている。この地域は落合、茶屋坂、城山、千旦林茄子川等が中心であると云う。



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