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| その後、17世紀後半から日常雑器の生産が中心になります。そして、その頃から磁器の白さをめざして御深井釉、白釉が施された焼き物も現れます。そして有田の陶石の発見がもとで、美濃では素地はせっ器ですが、白釉を掛けて磁器ににせた太白といわれるものが焼かれます。 江戸時代末期に近い文化文政(1804〜1829)の頃、磁器の製造がやっと始まります。それは、瀬戸の加藤民吉が唐津で磁器の製造方法を学び、それが美濃に移り磁器の生産が始まったという説や、多治見で陶工加藤正兵衛らによって磁器製造が成功したとも言われています。 陶石単身で焼かれる有田の磁器生産に遅れること約200年です。陶石のない東濃の地では、砂婆、層珪、蛙目粘土、木節粘土などを調合し、焼成すれば有田よりも透光性を持った坏土(長石質磁器)が作られました。(現在もほぼ同じです) そして明治時代に入り染め付けの顔料となる呉須は、山呉須(紺青・酸化鉄に少量 の酸化コバルトを含んだもの)から明治6年唐呉須の輸入により安定した発色が可能になりました。 染め付け方法も、生産性を高めるため手描きから摺絵、銅版、スクリーンプリントへと、色々な加飾技法が開発され上絵付けもはじまります。そして美濃焼は磁器の生産が増え、ここ東濃地方は大生産地となります。 |
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| しかし他の産地商品と比べ粗悪で安物と呼ばれたことを憤慨とし、多治見の豪商であった三代目西浦円治が市之倉の名工加藤五輔の協力のもと繊細な染め付け吹絵により絵画的表現を現した磁器が焼かれました。今では幻と言われる西浦焼です。 国内だけでなく諸外国にも輸出されパリ万博で表彰も受けた西浦焼きですが、時代の先取り、後継者等などの問題により、明治44年工場は閉鎖されました。 |
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| そして明治時代中期頃、中国向け、国内向け日常雑器生産のため、他の産地に負けないためにも安価コストを実現せざるを得ず、製品別
分業制度が発展しました。 すなわち市之倉の盃、土岐津・泉の煎茶碗、湯呑、妻木・滝呂のコーヒー碗皿、駄 知の丼、肥田の皿、瑞浪・笠原の茶付茶碗、下石の徳利、陶の平物などがそれで、職工技術の細分化、未熟練労働者の活用を通 じて専門生産体制により安価コストを実現しました。 そして、大正時代末より電気の供給により生産工程において機械化も進み、窯も登り窯から平地に築ける炭窯へと変わり、ますます生産規模も大きくなります。 |
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| そして昭和初期には高級品需要も増え、益々の機械化と同時に技術もいちじるしく向上しました。 窯も炭窯から重油窯、シャトルのガス窯、トンネル窯、ローラーハースキルンへと進化すると同時に、歩留りの向上、製品の均一化、大量 生産化につながっていきます。 そして笠原でタイル製造も始まります。幸い戦火にみまわれず、幾多の不況にもうち勝ってきた美濃焼は、今となっては圧倒的に名実共に日本一の生産量 を誇っています。 洋食器は国内生産の約51%、和食器は約58%、タイルは約41%です。 いわゆる日本で日常使用する食器類の過半数が美濃焼で占められています。 |
| 資料提供 ・土岐市美濃陶磁歴史館 ・(財)岐阜県陶磁資料館 参考文献 ・多治見・土岐・瑞浪の歴史(郷土出版社) ・美濃窯の1300年 ・近代陶業史 ・美濃窯の焼物 |