古田織部


武将で茶人 古田織部 黒織部茶碗
黒織部茶碗
(土岐市美濃陶磁歴史館蔵)

 古田織部は(1544-1615)、美濃国山口(現在の岐阜県本巣町)に生まれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将であり、千利休(せんのりきゅう)の後を継いだ天下一の茶の湯の名人でありました。

 彼は、それまで侘(わび)を旨とし、数奇(すき)を重んずる「侘(わび)の茶」から、後に”織剥Dみ”といわれる歪んだもの、へうげもの(瓢軽(ひょうげ)たもの)を茶道具に取り入れるなど、ほのかに明るく華やかでおおらかな「武家の茶」を創り出しました。


大胆な造形 斬新な図柄 新鮮な色彩 織部焼 鳴海織部角鉢
鳴海織部角鉢
(岐阜県多治見工業高等学校蔵)

 古田織部が用いた茶道具の中に、美濃の陶工たちを指導して焼かせた美濃焼があり、好んで使用したことから彼の名前を冠して「織部焼」といわれています。

 織部焼には、作為的にひずませた非対称の大胆な形、斬新な幾何学的図柄、織部釉と称される美しい緑色に代表される斬新な色彩が用いられているなど大きな特徴があります。


古田織部 略年譜
天文13年 (1544) 美濃国で出生、幼名左介(さすけ)のち影安(かげやす) 重然(しげなり) 織部正(おりべのかみ) 宗屋(そうおく)
永禄10年 (1567) 美濃を平定した信長に従軍
永禄12年 (1569) 摂津国茨木城主中川清秀の妹せんと結婚
天正 3年 (1575) 山城国上久世荘の代官
天正10年 (1582) 本能寺の変 山崎合戦で秀吉に参陣
8月27日利休書状に「古左」登場
天正11年 (1583) 10月15日秀吉茶会に「古左」出席
天正13年 (1585) 7月織部正影安(おりべのかみかげやす)を名乗り、山城国西ヶ丘城主
天正18年 (1590) 秀吉の小田原攻めに従軍
美濃不破郡内代官
古田織部
古田織部正重然木像
(京都市 興聖寺蔵)
慶長 3年 (1598) 8月秀吉没、父重定殉死 隠居
慶長 4年 (1599) 2月28日伏見で茶会を催し、ヒズミ茶碗を使用
慶長15年 (1610) 江戸城で将軍に茶を指導 以後茶道指南役
慶長19年 (1614) 方広寺の鐘銘事件で謹慎中の清韓を茶会に招く
慶長20年 (1615) 大阪夏の陣、豊臣氏滅亡
6月11日織部父子切腹を命ぜられる(享年72才)

織部が生きた時代背景

  • 織部の時代は「大航海時代」
    • ポルトガル、スペインからキリスト教文化がなだれ込み、中国、朝鮮、南アジアと盛んに交流。
    • 十字架を日本の草花紋様で飾り、型紙を朝鮮や中国に送り、好みの茶碗を焼かせた。
  • 織部の時代は「カブキの時代」
    • 1600年の関ヶ原の戦の後、カブキモノが過激に横行し、開放的で艶やかな文化が結実
      ※カブキモノ・・・新しい身分秩序に反抗し、暴風なファッションで隊伍を組んで横行する武士たち
    • 1603年、出雲の阿国がカブキモノの風俗をまねた歌舞伎踊りを京都北野天満宮で上演し、大ヒット。その踊りが全国に広がり、絢燗で派手な異風が流行。
    • カブキモノは、ファッション革命を起こすとともに、カブキモノが遊ぶ行楽名所、祭り、遊郭、劇場にまつわるサービス業が盛況を極めた。

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